#箱の中

しあわせになるために生きてます。とりあえず来年は海外に旅に出ます。

“ダサい”ことが何より恐ろしいんだけど?

むかしから

(自分が)“ダサい”こと(をするの)

が死よりなにより恐ろしいし、許せないのだけれど、なぜなのだろう。

 

人に“ダサい”と思われるのも、確かに嫌なのだけれど、それより

「自分が“ダサい”と思うことをする」というのが恐ろしくて仕方ないんだ。

ふつうに「ダサいことするくらいなら死んだほうがまし」だと思ってる。

それくらい嫌だ。

だけど意外と自分が“イケてる”と思っていることを相手に否定される、つまり

「ダサいと思われる」ことはべつだん気にならないし、そんなにダメージを受けなかったりする。

 

ダサい自分はキライ。

人からどう見られるか、ということより

自分の中の“こうありたい自分”から外れる(?)ことのほうがなにより耐えがたいのだ。

何かをするかどうか決めるとき、それが

“クールか、クールじゃないか”

で判断してることがよくある。それくらい、

「クールな(イケてる)人間でありたい!(ダサいのヤダ!)」

という想いが、むかしから強い。

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そしてわたし自身、そういう人に惹かれる傾向にある。“そういう人”というのはつまり

  • 自分なりの美学を持ってる
  • ダサいことがきらい
  • マイルールがある
  • しっかり自分を持ってる

そんな人たち。

やっぱりそういう人をクールだと思うし、似た者同士で気が合うのか一緒にいて楽しいと思う。

 

だけど、そういう人たちを見ていると感じることがある。それは

「みんな生きるの大変そうだなあ」

もちろんそうじゃない人もいるけどさ。

 

ダサいことをしたくないと思っている人たちは、周りからみれば魅力的に見える人が多いと思う。

だってダサいところは見せないから。

優しかったり、話が面白かったり、カッコよかったりと、人として素敵な人が多いイメージ。

 

本人からしてみれば、それがあまりにも自然なことになっているから、

無理しているわけではないし、当たり前のことになっているのだけれど。

それでもたまにふと、どこか言葉にはできないんだけど違和感を感じることがある。

 

人には見せない自分、というか自分ですら認識していない自分がいる気がする。

どこか否定している部分があるのでは?

見ないようにしている部分があるんじゃない?

とおもってしまう。

 

まあ完ぺきに自分のことなんですけどね!

クールな自分でいたいと思っているのは別にいいと思うんだ。

けど、クールじゃない自分を否定してしまうことはあまりいいことではないなあと思う。

それは、自分を窮屈にするから。

ほんとはそこにOKを出したいのだけど、それがなかなか難しいのです。

 

 全てを受け入れたい

自分のダサいところすら受け入れられる人間になりたいと思う。

だってそんなことできるって超絶クールじゃん?

それは、絶対に揺るがない圧倒的な自信と、自己愛がないとできないことだから。